小学校3年の授業参観日があった日の夕方、学校から帰って来た母に呼ばれた。
叱られるとばかり思って俯いていた自分の頭の上から、思いがけず優しい言葉が降りて来た。
「欲しい本、読みたい本が有ったら何時でも言いなさい。
家には余裕は無いが、出来るだけ買ってあげるから・・・・・・」
こう言った後で母は、「勉強が楽しいか・・・・・」と私に聞いた。
楽しい、と答えた。
後で分かった事だが、参観日終了後の父兄面談で担任の先生が、
「がまかつ君は質問が多いので時々授業が進まなくなってこまる。
家で少し教えてはくれまいか・・・・・」
と母に何気なくこぼしたのだそうだ。「がまかつ」と言うのは私の本名である。
私は、幼少の頃から「??なぜ何故?」少年だった。それが学校に入り出すと一気に爆発した。
一つ教えられると、三つの疑問が湧く。
疑問の一つが分かると、その答えから更に疑問が三つ出てくる。
つまり、一つ分かると3の二乗分ずつ分からない事が増えていく。
一日の授業を終えて校門を出るときには、朝方よりいっそう疑問だらけの頭を抱えて帰宅する羽目になった。
そんな事が一週間、一ヶ月、一学期と続けばどうなるか。
当然の様に授業にはついて行けず、知らずの内に所謂落ちこぼれになっていたのである。
ただ不思議な事は、試験をやると点数は何時も悪くは無かった。
内に沸騰してくる「何故、如何して」の質問に答える所が学校では無い、と子供心に分かり、
先生が期待する答えを書けば、一応大きな花丸が貰える事に気付いたからである。
小学校3年の、その日以降、私は学校の授業で質問する事を止めた。
授業は私の手が挙がらなくなるのと並行して、快調に進んだ。
しかし手を挙げなくなると同時に、私の心は授業とは全く別の「はてなの旅」を続けて行く様になる。
それは苦痛を伴わない全く愉快な時間と知的空間の拡大へとつなっがっていった。
終了のベルの音を夢うつつの中で聞く様になる。
それと時を同じくして、点数はみるみる内に下がっていく。
しかし母は決して私を叱らなかった。
学校から帰って来て、今日習った事を手短かに話た後で、
「それで、どうしてこれがこうなるの?誰がそんな事を決めたの?」
質問、疑問をぶつける相手が、学校の先生から母へと変わっていたのである。
母の答えは今思うと随分いい加減だったと思う。例えばこうだ。
「そう。其処を知りたいから、世界中の偉い人が勉強し、研究しているんだヨ・・・・・」とか
「ホ~ッお前はそんな事まで知りたくなったの。
エライねぇ~。よくそこまで考えたこと。
お母さんはあまり難しくてそんな事考えた事もなっかったのに、よくお前はその小さな頭で考えたこと!!
これからもそんな風に考え続けて行きなさい。
分からないって事は、決して悪い事では無い。
分からない事が分かっただけでも勉強している意味があるんだから・・・・・」
煙に巻く様な答えが何時もだった。
しかし、不思議な事にその一言で、心の中には穏やかな気分が「サ~ッ、」っといっぺんに広がって、元気良く外へ遊びに行けたのである。
点数は下りに下ったが、その事で一度も叱られた記憶が無い。
そういう一年を過ごした。
この一年は実に貴重だったと思っている。
その後、担任が変わると、其れまでの成績が嘘の様に、今度は急上昇していった。
「勉強しろ、」とは一度も母から言われた事が無い。
勿論父親からも・・・・・・・・・・・・・
只、毎月、一回。父は給料日の日、子供達に一冊づつ本を買って来た。
その日の夕方は、家の玄関を掃除して、父を待った。
自転車に乗って坂を降りて来る父の姿を、夕焼け空の下で迎えた。
自転車を降りるなり、「ハイッ!!」と本の入った風呂敷包みを子供達に父は与えた。
・・・・・今思うと、本好きになったのは、父が下げていたあの風呂敷包みの所為かも知れない。
兄弟皆でワクワクして風呂敷包みの結び目を解いた。
その夜は、兄も弟も、皆夜更かしをした。
勉強しろと最後まで一度も言った事が無い父が、昨年の夏、他界した。
私は、宮城のとある防波堤で、釣りをして一人で父の事を思った。
涙を流しながら釣りをしたのは、最初だった。
釣りは父から教わったのである。
夕焼けと、坂と、自転車と、風呂敷包み・・・・・。
父から渡されたあの風呂敷包みで、本好きの自分が出来たのかも知れない。
本を開く前、あの子供達の頃の夕焼け空がよみがえる。